
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」が1月から放送が開始されるので、主人公豊臣秀長についてまとめてみました。
豊臣秀吉の弟、豊臣秀長。
実はこの人物、「評価されなさすぎる戦国武将」の一人です。
兄である豊臣秀吉があまりにも強烈な存在だったためでしょうか。
あるいは、秀長が常に“秀吉の影”として動き、自ら表に出ることを好まなかったからでしょうか。
大河ドラマでも、豊臣秀長はあまり丁寧に描かれることがありません。
しかし調べてみると、そこにはとても興味深い人物像が浮かび上がってきます。
秀吉の資料は山ほどあるのに、秀長は見つからない
豊臣秀吉については、教科書から専門書まで数えきれないほどの資料があります。
一方で、豊臣秀長の活躍を調べようとすると、秀吉の史実の中に「少しずつ」登場する程度です。
それだけ秀長は、
- 主役ではなく
- 目立つ立場にも立たず
- 裏方として働き続けた
武将だったとも言えるのではないでしょうか。
調整役として力を発揮した豊臣秀長
秀長は、豊臣秀吉の弟として戦国時代に活躍した人物です。
派手な合戦で名を上げるよりも、調整役・内政担当として力を発揮したとされています。
秀長について調べていると、「人望が厚かった」という評価がとても多く見られます。
下から信頼を積み上げる交渉術
秀長は調整役として、
- 蜂須賀正勝(はちすか まさかつ)
- 前野長康(まえの ながやす)
といった武将たちに対し、
「私たち兄弟が手柄を上げられたのは、すべてあなた方のおかげです」
という姿勢で接していたと伝えられています。
上から高圧的に命令するのではなく、下手に出て信頼を得ていく。
短気で感情的になりやすかった秀吉には、なかなか真似できない交渉だったのかもしれません。
結果として秀長は、多くの武将から自然と信頼を集めていきました。
敵からも評価された「温厚さ」
秀長の評価で注目したいのは、味方だけではありません。
敵対勢力(毛利氏など)や家臣団からも、
- 「温厚で話を聞いてくれる」
- 「道理をわきまえている」
といった人物評が残されています。
戦国時代において、敵からも一定の評価を受けるというのはとても珍しいことです。
秀吉との役割分担が豊臣政権を支えた
兄・秀吉が「前に出て引っ張るタイプ」だったのに対し、秀長は「裏方に回って整えるタイプ」でした。
たとえば、中国攻めでは、秀長は山陰道や但馬国平定の指揮を任されています。
また「三木合戦」では補給路を断つことで勝利を支え、「備中高松城の戦い」では兵員や資金の調達など裏方業務を担い、水攻め成功を支えたとされています。
こうした役割分担こそが、豊臣政権を安定させていた要因の一つだったとも考えられています。
秀吉からの絶対的な信頼
秀吉は、黒田官兵衛に対して「秀長同然」といった思いを伝え、さらなる働きを求めたとされています。

黒田官兵衛は秀吉の天下取りを支えた天才軍師じゃ。嘘をつけない真っ直ぐな人柄が人気だったようじゃな

ぼくもそういう人好きだよ
このエピソードだけでも、秀吉がどれほど秀長を信頼していたかが伝わってきます。
そして秀長も、その信頼に応えるように行動します。
内政面で見せた秀長の実力
秀長は竹田城代として、旧武田領を含む東国情勢の安定化を任されました。
現地の状況に応じて、
- 治安の維持
- 所領の管理
- 領民生活の安定
などに配慮した政策を行っていたとされています。
このことから、秀長は「豊臣秀吉の弟」という立場だけでなく、それにふさわしい才覚を持った人物だったことが分かります。
秀吉の天下取りを最後まで支えた存在
秀長は、
- 山崎の戦い
- 賤ヶ岳の戦い
- 小牧・長久手の戦い
といった一連の戦いに関わり、秀吉の天下取りを支え続けました。
さらに、
- 紀州攻めでは副将
- 四国攻めでは総大将
を務め、その功績によって紀伊・和泉・大和を領する約100万石の大大名へと成長します。
なぜ大河ドラマでは目立たないのか
これほど重要な人物でありながら、秀長は大河ドラマではあまり注目されてきませんでした。
その理由の一つとして、
- 派手な武勇伝が少ない
- 表に立つより裏方に徹した
といった点が考えられます。
しかし政権を支える存在としては、これ以上ないほど重要な役割を果たしていたとも言えます。
豊臣秀長の死と、その喪失
体調を崩した秀長は次第に軍事活動から退き、豊臣政権の中枢として行政を担うようになります。
しかし病状は回復せず1591年(天正19年)、52歳で生涯を終えました。
秀長の死後、豊臣政権が次第に不安定になっていったことから、
「もし秀長があと数年生きていれば、豊臣政権はもっと長く続いた」
とも言われています。
それだけ表に出ない調整役の存在が、政権にとって重要だったのかもしれません。
もし秀長が生きていたら?
もし豊臣秀長が、もう少し長く生きていたら――
豊臣政権の運命は、変わっていたのでしょうか。

もうちょっとだけ長く続いたかもね
※本記事は複数の資料をもとに構成しています
※史実の解釈には諸説あります

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