義和団の乱→満州駐兵→日露協商の失敗→日英同盟成立→韓国への介入、という流れを整理します。

要点(この記事で押さえること)
- 義和団の蜂起(義和団戦争)と北清事変、北京議定書の成立
- 義和団の混乱の中でロシアが満州に駐兵し、撤兵せず満州支配を強化
- 満韓交換案(満州の代わりに韓国の影響権を主張)などの日露協商の難航
- 1902年の日英同盟成立が日露関係に与えた影響
- 日露戦争前後の日本による韓国への関与(第1次日韓協約など)
1. 義和団の乱と北清事変(背景)
1899年、中国で排外運動が高まり、「扶清滅洋(清を助け外国を滅ぼす)」を掲げる義和団が蜂起しました。 1900年、義和団が北京の列国使館を包囲し、新政府(清)が宣戦布告したため北清事変に発展。 日本を含む列強が連合軍を組織して北京を占領し、1901年の北京議定書で賠償金・駐兵権などを獲得しました。

なんで排外運動が起こったの?

きっかけは北京条約でキリスト教の布教が自由に認められたことじゃ。中国文化を重視するひとにとっては、許せんかったんじゃな

愛国心だね!
2. ロシアの満州進出(南下政策と駐兵)
ロシアは南方への不凍港確保を国家戦略としており、義和団事件を口実に満州に大兵力を投入しました。 乱収束後も満州から撤兵せず、むしろ満州支配を強めたため、日本は韓国の安全(影響圏)を脅かされると危機感を強めました。
3. 日露協商と「満韓交換」案の浮上
日本政府内(伊藤博文・井上馨ら)には、現時点での全面対決は得策でないとの見方があり、協商による妥協を模索しました。 提案の一つが「満韓交換」――ロシアの満州支配を事実上認める代わりに、日本の韓国における優越を認めさせる案です。 しかし交渉は難航し、合意に至りませんでした。

満干交換は簡単に言うと日露戦争前に、ロシアの満州支配と日本の朝鮮支配をそれぞれ認め合うことじゃ。日本国内でも反対の声があったぞ

いい案だと思うけどな

ロシアに満州の支配を認めるということは、ロシアが朝鮮半島にまで進出してくるかもしれんから、安全保障の観点からの反対じゃな
4. 日英同盟(1902年)の成立とその意義
交渉が難航する中で、日本は外交的に有利な立場を得るため英国との接近を図りました。 1902年に結ばれた日英同盟は、主に次の意義を持ちました:
- 日本:ロシアと戦端が開かれた際、英国の支持を期待できる
- 英国:ロシアの南下を抑制する目的で日本を対露牽制に組み込める
5. 韓国の独立宣言と日本の介入(1904年以降)
朝鮮は1897年に「大韓帝国」と改称して独立性を主張しましたが、日露戦争の勃発後、日本は日韓議定書(1904年)で 軍事上必要な地点の収用を認めさせるなど韓国への干渉を強めました。続く第1次日韓協約により、韓国は日本が推薦する財政顧問・外交顧問を受け入れ、 日本は実質的に韓国の財政と外交に影響力を及すことになりました。
年表(簡易)
- 1899年:義和団蜂起(扶清滅洋)
- 1900年:北清事変(北京占領) → 1901年 北京議定書
- 1902年:日英同盟結成
- 1904年:日露戦争開戦 / 日韓議定書・第1次日韓協約へ
まとめ(ポイント)
日露対立は単に両国間の対立だけでなく、列強間の勢力均衡・満州・朝鮮という地域の戦略的利害が絡んだ複合的な問題でした。 日英同盟の成立や日韓協約などの一連の動きが、最終的に日露戦争へとつながっていきます。
確認問題(復習用)
- 義和団の乱が国際関係に与えた影響を簡潔に説明せよ。
- 「満韓交換」とは何を意味する案か、要点を述べよ。
- 日英同盟が日本にもたらした外交的利点を2つ挙げよ。

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