朝鮮の独立問題、甲申事変・日朝修好条規、ロシアの南下政策と三国干渉を整理します。

19世紀末の朝鮮をめぐる情勢
明治時代、日本は朝鮮半島に深く関与するようになりました。清の冊封体制からの離脱や列強の介入が続き、 朝鮮は国内勢力の対立と列強の思惑が交錯する舞台となっていきます。
朝鮮国内の対立と甲申事変(甲申政変)
朝鮮には、清に依存して現状を維持しようとする閔氏政権=事大党と、 日本の近代化を模範とする開化派(独立党)が対立していました。開化派の指導者に金玉均(キム・オクギュン)らがいます。
1884年、開化派は日本の支援を受けてクーデター(甲申事変)を起こしますが、清国軍が介入して失敗しました。 この結果、日清間では天津条約(1885)が結ばれ、朝鮮へ出兵する際は相互通告が必要とされました。
日朝修好条規と壬午軍乱(壬午事変)
1876年、朝鮮と日本は日朝修好条規を結び、朝鮮の国際的地位(清の冊封からの距離)を変えました。 一方で日本と閔氏政権の接近に反発する勢力は1882年に反乱を起こし(壬午軍乱)、日本公使館が襲撃される事態になりました。
日本は出兵しましたが、清は宗主国として介入し、国内の政治を動かしました。こうした一連の動きが日清対立の遠因となります。

「閔妃」は特定の個人、「閔氏」は閔妃の一族全体を指す言葉じゃ
閔妃殺害事件と大韓帝国の宣言
日清戦争後に清の影響力が弱まると、閔妃がロシアへ接近しました。これを警戒した一部の勢力が 閔妃を殺害する事件(閔妃殺害事件)を引き起こします。混乱のなか、朝鮮は1897年に国号を 「大韓帝国」に改め、清と対等な主権国家であることを示しました。

閔妃は朝鮮王朝末期の皇帝の妻じゃ。ロシアに近づいたのは、日清戦争で日本が勝利して日本の影響力が強くなりすぎると考えたから、ロシアに対抗勢力になってもらおうと考えたんじゃな

バランスを考えたんだね
ロシアの南下政策と三国干渉
ロシア帝国は不凍港を求める南下政策を推進しており、東アジアでも影響力を伸ばしていました。 日清戦争(1894〜95)で日本が勝利し、下関条約で遼東半島を獲得すると、ロシア・ドイツ・フランスは連名で 返還を勧告します(三国干渉)。日本は遼東半島を返還せざるを得ず、大きな衝撃と屈辱を受けました。

不凍港は一年中凍らない港のことじゃ。軍事的にも経済的にも極めて重要じゃったんじゃ

凍ったら使えないもんね
重要ポイント(要点チェック)
- 甲申事変(1884):開化派のクーデター→清軍介入→天津条約(1885)で相互通告を確認
- 日朝修好条規(1876):朝鮮の国際的地位の変化(清の冊封体制との距離)をもたらす
- 閔妃殺害事件:親露化への反発→朝鮮国内の混乱を深める
- 三国干渉(1895):遼東半島返還で日本に屈辱感→対外政策の転換を促す要因

参考文献
- 大学受験 新標準講義 日本史探求(田中結也)
- 大学受験 新標準講義 世界史探求(山口良二)


コメント