明治維新の成立と意義
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王政復古と徳川慶喜の挫折
大政奉還の後も徳川慶喜は「諸大名のリーダー」として新政府の中心に残ろうと考えていました。しかし、薩摩・長州などの討幕派と公家(岩倉具視ら)は徳川氏の影響力を排し、天皇中心の新体制をつくる決意を固めます。
1867年12月9日、王政復古の大号令が出され、摂政・関白・幕府が廃止され、三職(総裁・議定・参与)が設置されました。さらに徳川慶喜には内大臣辞退と領地返上が命じられ、政治的実権を奪われます。
鳥羽・伏見の戦いと戊辰戦争
徳川側はこの処分に反発して旧幕府軍を率い、京都に攻め入りますが、薩長連合を中心とする新政府軍に敗北します(鳥羽・伏見の戦い)。
以後、旧幕府勢力と新政府軍の間で全国的な戦闘が続きますが、これら一連の内戦が戊辰戦争です。
五か条の誓文と五榜の掲示
新政府は明治天皇の前で政治方針を示しました。これが五か条の御誓文です。開国や公議世論の尊重など、近代国家への基本方針を掲げました。
五か条の御誓文(要旨)
- 公議世論の尊重
- 人材登用の自由(身分を問わない登用)
- 学問・知識を広めて国際交渉に備える など
その翌日には五榜の掲示が掲げられ、徒党・一揆の禁止や忠孝の奨励、キリスト教禁制などが示されました。ただしキリスト教禁制などは国内外からの批判を受け、後に撤廃されています(キリスト教禁止高札は1873年に撤廃)。

五か条のご誓文は新政府の基本方針を示したもの、五榜の掲示は民衆向けの禁止令じゃ
新政府の組織(政体書せいたいしょと太政官制だじょうかんせい)
新政府は政体書を公布して政府組織を定めました。政体書は形式的に三権分立を参考にした記述を含みますが、実際には中央の太政官に権力が集中する体制となりました。
- 政体書(1868年)で政府組織を定める
- 形式上は三権分立を参照するが、実務は太政官への権力集中
まとめ
明治維新は、封建的身分制と幕藩体制を解体し、中央集権的な近代国家へ移行する転換点でした。政治体制・行政組織・国の進め方が大きく変わり、日本の近代化(中央集権化・産業化・国際化)の基盤が形成されました。

明治維新による近代化の迅速な進展が、日本が欧米列強の植民地となることを回避し、独立を維持できた大きな要因と考えられておる

ギリギリ間に合ったってことだね
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参考文献
- 一度読んだら忘れない日本史の教科書(山崎圭一)
- 大学受験 新標準講義 日本史探求(田中結也)



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