幕府から新政府へ――主導権をめぐる流れ
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背景:公武合体と安藤信正の路線
大老・井伊直弼の暗殺後、幕府の主導権を握ったのは老中の安藤信正でした。安藤は、対外的には通商関係を維持しつつ、国内の政治安定を図るために朝廷との融和(公武合体)を進めました。
その象徴的な政策が、14代将軍徳川家茂の正室に孝明天皇の妹和宮を迎えるという婚姻でした。幕府と朝廷の結びつきを強めることで政局の安定を図ろうとしたのです。
しかし、公武合体は尊王攘夷派の強い反発を招き、安藤信正は坂下門外の変で襲撃され失脚します。

安藤信正の襲撃は未遂じゃ

生きててよかったね
薩摩・長州の転換と薩長同盟
薩摩藩と長州藩は当初対立関係にありましたが、ともに外国勢力との衝突(例:薩英戦争、下関戦争)を経験し、欧米列強の軍事力の差を痛感しました。両藩内には「近代化のためには旧体制を変える必要がある」という認識が広がります。
土佐藩出身の坂本龍馬と中岡慎太郎が両藩の仲介を果たし、薩長同盟が成立しました。薩長同盟は幕府への大きな政治的圧力となり、倒幕運動を強める契機となりました。

のちに坂本龍馬は亀山社中という会社を設立し、経営者として活動したぞ

手広いね
大政奉還とその帰結
15代将軍となった徳川慶喜は、薩長の動きを受けて政治的主導権を維持する方策を探りました。土佐藩関係者らの助言を受け、慶喜は将軍自ら政権を天皇に返上する(大政奉還)という決断をします。
慶喜は、政権を天皇に返上しても徳川家が諸大名連合の代表として主導権を握れるという考え(いわゆる公議政体論)を受け入れ、1867年に大政奉還を行いました。
しかし、すでに朝廷側(討幕派)には武力討幕を促す動きがあり、薩長側は討幕のための動員を進めていました。結果として、江戸幕府の約260年に及ぶ支配は終焉を迎え、新政府樹立への道が開かれます。

結局、慶喜は主導権を握らせてもらえなかったんじゃがな

あちゃあ、騙されちゃったか
明治維新の成立と意義|大政奉還から王政復古までをわかりやすく解説

年表で確認(主要ポイント)
- 安政の変・井伊暗殺後 → 安藤信正の公武合体路線(和宮入内など)
- 尊王攘夷派の反発 → 坂下門外の変(安藤失脚)
- 薩摩・長州が近代化の必要を認識 → 坂本龍馬らの仲介で薩長同盟成立
- 徳川慶喜、大政奉還(1867年)を行い、幕府政治は終焉へ
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参考文献
- 一度読んだら忘れない日本史の教科書(山崎圭一)
- 大学受験 新標準講義 日本史探求(田中結也)



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