2025年度 共通テスト日本史B 第4問 問2 解説
試験問題は大学入試センター公式サイトで確認できます。

図の説明
図の中央に描かれた防塁(石築地)は、一度目の襲来「文永の役」(1274年)のあとに築かれたものです。したがって、この図は二度目の襲来「弘安の役」(1281年)の様子を描いたものだと判断できます。

文永の役、弘安の役はそれぞれ発生した元号の「文永11年」、「弘安4年」に由来しておるぞ
防塁・石築地(いしついじ)
文永の役後、博多湾沿岸の西の今津から東の香椎まで、延べ約20kmにわたり築かれた石造の防塁。弘安の役で上陸を阻止する効果がありました。
時代背景
鎌倉時代、13世紀初頭にモンゴル民族が大帝国を築きました。フビライ=ハンは高麗を服従させ、日本にも朝貢を要求します。
8代執権・北条時宗はこの要求を拒否したため、元・高麗連合軍が襲来。対馬・壱岐・博多湾岸に上陸しました(文永の役)。
文永の役の後、幕府は防衛体制を強化するため、以下の対策を実施しました。
- 博多湾沿岸に防塁(石築地)を築く
- 異国警固番役を強化し、九州の御家人を動員
問2の分析
問2のXについて
資料には「異国警固番役は『両方の沙汰』」「石築地の用途は『等分の沙汰』」とあります。これにより、荘園領主もモンゴル襲来に対応するための負担を課されていたことがわかります。したがって、問2のXは不適当です。
問2のYについて
会話文中の翔太さんの発言から、資料2の判決書は1324年に下されたことがわかります。これは弘安の役(1281年)の後の出来事であり、鎌倉幕府が三度目の襲来に備えていたことを示しています。したがって、問2のYは適当です。

この頃には御家人は疲弊して不満大爆発じゃ

でもそうも言ってられないしね
まとめ
鎌倉幕府は文永・弘安の役を通して、防塁や異国警固番役など防衛体制を整備しました。しかし、長期間の警備や財政的負担が御家人の生活を圧迫し、幕府の支配体制を弱体化させる要因にもなりました。

モンゴル帝国はチンギス=ハンの死後、分裂したぞ

意外と短かったんだね

参考文献
・一度読んだら忘れない日本史の教科書(山崎圭一)
・大学受験 新標準講義 日本史探求(田中結也)
・2026年版 共通テスト 過去問研究(数学社)
・新課程 チャート式シリーズ 新日本史(門脇禎二)



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