2025年度 共通テスト日本史B 第1問 問2 解説
試験問題は大学入試センター公式サイトで確認できます。
テーマは「明治時代の外交」。
日本が清や朝鮮とどのように関係を築いていったのかを整理していきましょう。

明治のアジアへの外交の目的は、政治的・軍事的に進出することじゃ

うわあ、不穏

時代背景
時は明治時代。大久保利通が政権の中心に立ち、積極的な外交を展開しました。
清とは以前から日清修好条規(1871年)を結び、対等な外交を開始していました。しかし、琉球漂流民殺害事件(1871年)が起こり、清が責任を取らなかったため、関係が悪化します。

琉球漂流民殺害事件は、琉球の漂流民が台湾先住民に殺された事件じゃ。台湾は清の支配下にあったから、清が責任をとるべきじゃったんじゃ
その結果、大久保政権は責任を問うために台湾出兵(1874年)を実施しました。

琉球が沖縄として日本の領土になったんじゃ

沖縄そばおいしい
一方、朝鮮に対しては、日本が沿岸の江華島に軍艦を差し向けて挑発し、朝鮮の砲台が発砲した江華島事件(1875年)が起こります。これは朝鮮の開国を迫るための行動であり、この事件をきっかけに日朝修好条規(1876年)を結びました。

わざと砲台で攻撃させたんだ!わるっ
日朝修好条規とは?
日本の外交の転換点となった重要な条約
- 江華島事件をきっかけに締結
- 日本の領事裁判権を認めさせた
- 朝鮮の宗属関係(清への従属)を否定
- 朝鮮にとって不平等な内容

台湾出兵の意義
日本は、琉球漂流民殺害事件を「清の統治下で起きた問題」と見なし、清の責任を追及しました。
清が台湾の統治を十分に行っていないことを理由に、日本は出兵を「正当な行為」と主張し、両国関係をさらに緊張させました。
時系列整理
| 年 | 出来事 | ポイント |
|---|---|---|
| 1858年 | 日米修好通商条約 | 居留地が設けられる |
| 1871年 | 日清修好条規/琉球漂流民殺害事件 | 清と初の対等外交 |
| 1874年 | 台湾出兵 | 清への圧力外交 |
| 1875年 | 江華島事件 | 日本が朝鮮を挑発 |
| 1876年 | 日朝修好条規 | 朝鮮にとって不平等条約 |
| 1884〜85年 | 清仏戦争 | 清の弱体化が明らかに |
| 1894〜95年 | 日清戦争 | 日本が勝利 |
| 1895年 | 下関条約 | 日清講和条約を締結 |
登場人物メモ
- 森有礼(もりありのり):明治の外交官・政治家。啓蒙思想家として「明六社」を創設し、後に文部大臣に就任。帝国憲法発布の日に刺殺された。
- 李鴻章(りこうしょう):清の政治家。洋務運動を推進し、天津条約・下関条約などの対外交渉に関与。

問題の概要
日本は日清修好条規(1871年)で清と対等な関係を築いた後、台湾出兵(1874年)・江華島事件(1875年)を経て、日朝修好条規(1876年)を締結し、朝鮮との外交関係を樹立しました。
問題文には、当時の駐清公使森有礼と清の政治家李鴻章の会談記録が示され、条約締結の時期や事件との関係を読み取らせる構成になっています。
問2の選択肢を分析
① 下関条約について: 下関条約は日清戦争(1894〜95年)後の条約なので誤り。
② 江華島事件と清仏戦争: 資料の「事件」は江華島事件のこと。清仏戦争(1884〜85年)は清の弱体化を示し、日清戦争への伏線に。✅正文。
③ 太平天国の乱と日米修好通商条約: 太平天国の乱がきっかけで、日米修好通商条約(1858年)を締結。しかし、外国人の国内移動は制限されていた。❌ 誤文。
④ 日朝修好条規: 江華島事件をきっかけに結ばれ、日本に有利な不平等条約。❌ 誤文。

時系列がややこしくて混乱する…

物事には理由があるんじゃよ。なぜ起こったのかを考えるのじゃ
この記事のまとめ
- 明治政府は外交を通して国際的地位を高めようとした
- 台湾出兵と江華島事件をきっかけに、東アジアでの影響力を拡大
- 日朝修好条規は日本に有利な不平等条約
- 清仏戦争で清が弱体化 → 日清戦争へつながる

最強の日本に一歩近づいたね
参考文献
- 一度読んだら忘れない日本史の教科書(山崎圭一)
- 大学受験 新標準講義 日本史探求(田中結也)
- 2026年版 共通テスト 過去問研究(数学社)
- 新課程 チャート式 新日本史(門脇禎二)
- 日本史用語集(山川出版社)
- 世界史バンク(https://worldglobalist.com/)



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