2025年度 共通テスト日本史B 第1問 問1 解説
試験問題は大学入試センター公式サイトで確認できます。


あっ船だ!

これは黒船の写真じゃ。資料の19世紀後半とは江戸時代の後期から明治時代初期のことじゃよ
この問題で問われていること
パネルではイギリス人のマカートニーが、アジアの伝統的な国際秩序である冊封体制(清を首長、周辺国を臣下とする考え方)を目の当たりにし、欧米の主権国家体制の違いに驚いています。アジアと欧米国では、国家体制がどう違うのかを理解することが大切です。

私が初めてこの問題を解いたとき、冊封体制の意味がよく分かってなかったのですが、ほかの問題でも出てくる超重要語句なので覚えてくださいね!
そして主権国家体制は、東アジアの価値観とは全く異なるため、両方が接触すると必ず摩擦が起きました。
この衝突が、後のアヘン戦争から日本の開国まで直結します。
江戸時代後期、日本の前に現れた「世界の変化」
時代は江戸時代後期。世界では産業革命やフランス革命が起こり、市民階級が力を持つようになりました。
このようなヨーロッパの「豊かな市民=資本家」たちは、商品を生産して世界中に売りさばこうとし、アジア各国にも進出していきます。
当然、日本にも外国船が来航するようになりました。
自由貿易政策と穀物法の廃止 産業革命について詳しくはこちら
最初は穏便に、でもそのうち砲撃!?異国船打払令とは……
初めのうち、日本は来航してきた外国船に対して穏便に帰国を要請していました。しかし、トラブルが続出するようになります。
たとえばロシアの使節・レザノフが長崎に来航し、通商を強く要求したことなどがきっかけです。

トラブルってなあに?

鯨油をとるために、イギリスやアメリカが日本に来るようになったんじゃよ。鯨油はランプの燃料や爆薬にもなったんじゃ

自分たちの国の周りで取ればいいじゃん

獲りつくしてしまったんじゃ…
こうした流れの中で1825年、幕府は「異国船打払令」を出し、外国船を見つけ次第、砲撃して追い返すという強硬策に転じました。

中国の秩序:「冊封体制さくほうたいせい」と朝貢貿易とは?
当時の東アジアには、中国を「中心」とする伝統的な国際秩序がありました。
これを「冊封体制」といいます。
| 用語 | 意味 |
|---|---|
| 冊封 | 中国皇帝が周辺国の首長を任命し、封土を与えて「臣下」にすること |
| 朝貢 | 君主が中国皇帝に貢ぎ物を持参して臣下の礼を取ること |
| 冊封体制 | 冊封・朝貢を軸にした、中国を頂点とする国際秩序(清まで続く) |
日本も一部この価値観を受け継ぎ、外国と対等に交渉する発想はまだ一般的ではありませんでした。

中国最強!

気づけ、それはアジアのなかだけの価値観じゃ
冊封体制は「中国中心の秩序」ですが、周辺国にとっても利益のある制度でした。立場の弱い国では、中国の後ろ盾があることは、安心できる材料でもありました。

ヨーロッパの秩序:「主権国家体制」とは?
一方、16〜18世紀のヨーロッパでは、「主権国家体制」が成立していました。
これは、「それぞれの国は、他国の干渉を受けず、領土内では絶対的な権限を持つ」という考え方です。
つまり、お互いに支配や干渉をしない=対等な外交関係が基本という秩序です。
ただしこの秩序は、ヨーロッパの「文明国」だけに当てはまり、アジアの「半文明国」には不平等条約が押し付けられました。

どの国もみな平等!

それはヨーロッパの国だけじゃ
アヘン戦争と冊封体制の崩壊
「主権国家体制」にそぐわない東アジアの国々は、ヨーロッパ列強のターゲットになります。
イギリスは清との貿易拡大を狙ってアヘンを密輸。清がこれを取り締まったため、1840年にアヘン戦争が勃発しました。
結果:イギリスが勝利し、南京条約を結ぶことになります。

最強の中国が…
当時の日本人の衝撃は現代で例えるなら「大国が最新技術で敗北」したような感覚です。
南京条約の内容
- 香港をイギリスに割譲
- 上海など5港を開港
- 従来の「広州一港限定貿易」→欧米との自由貿易へ
これは、冊封体制の崩壊と、ヨーロッパ型の国際秩序の東アジア進出を意味しました。

中国の銀が一気に海外へ流出して物価が高騰し、市場は大混乱。そして起こったのが太平天国の乱じゃ

中国に天国があるの?

太平天国は太平天国の乱で新たにつくられた国家の名前じゃよ

中国の港を覚えるのは大変ですよね…一度地図で5つの港を確認すると、理解しやすくなりますよ!

共通テスト2025 第1問・問1 解説
「主権国家からなる国際秩序」とはどんなもの?そして、18世紀末にイギリス人が貿易で使っていた港はどこ?
解答
「い」=主権国家体制
→ 各国が相互に独立・平等であると認め合う近代的国際秩序。(例:ウィーン体制などヨーロッパ的秩序)
「a」=広州(Canton)
→ 清代にイギリスが公認貿易を行っていた唯一の港(「広州交易」)
この問題では、アジア的な「冊封体制」と、ヨーロッパ型の「主権国家体制」の違いを理解しているかが問われています。清や日本が持っていた「上下関係を前提にした国際観」が、近代ヨーロッパの「対等外交」とどう違うかを把握しましょう。
明治政府はどう乗り越えた?
明治時代になると、日本は「主権国家体制」を理解し、欧米列強に並ぶ「文明国」を目指します。そのために行ったのが
- 富国強兵:軍事力の近代化
- 立憲政治の整備:明治憲法の制定
- 条約改正交渉:不平等条約の撤廃を目指す
これにより、日本は「半文明国」の立場を抜け出し、「対等な外交」を実現していきました。

戦争に負けない強い国をつくる、法律を整備する、不平等な条約をなくす。ぼくの考える、最強の日本をつくるよ。
この問題のポイント
冊封体制は「中国中心」ではあるものの、周辺国にとってはメリットも大きい合理的な制度でした。
一方で、主権国家体制は“対等”と言いつつ、実際は“武力背景による不平等”も多く、このギャップが、アジアの近代化や植民地化の背景になります。
参考資料
- 一度読んだら忘れない日本史の教科書(山崎圭一)
- 大学受験 新標準講義 日本史探求(田中結也)
- 2026年版 共通テスト 過去問研究(数学社)
- チャート式 新日本史(門脇禎二)
- 日本史用語集(山川出版社)


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